「分からない」と言えることが重要だと私が感じるようになったのは、実は中学・
高校時代に遡ります。中学の時も、高校の時も、それぞれ同級生に、とても優秀
な友人がいました。そしてどちらに対しても、とても敵わないと思ったものでし
た。
例えば、何かの説明を彼にしようとして、頭の中で説明の筋道を考えた上で彼に
話しはじめると、まだ 10 のうち 1 ほども説明していないのに、「分かった」
と言われてしまったことがしばしばでした。まだ説明は序の口にも到達していな
いような状況だったので、話はこれから面白くなるのにと思いつつ、佳境の部分
を端折って説明しようとしたら、先回りして「要するに○○ということだろう!」
と要点だけ言われてしまいました。
異常に早く「分かった」と言う彼でしたが、「分からない」も連発していました。
当時の私には、彼ほど優秀な人がなぜ「分からない」と言うのかとても謎でした。
私にとっては、「なるほどなるほど」と相槌を打ちたくなるような話 (別の友人
が話した話題だったり、数学の証明だったり、コンピュータの仕組みの説明だっ
たり、SF の設定だったりしましたが) に対しても、彼は「分からない」と言う
のです。
なにぶん 20年以上も前のことなので詳細は覚えていないのですが、どこが分か
らないのか問い詰めていったら、実は私も分かっていなかったことが判明して、
「なるほど!」と腑に落ちたことだけは覚えています。
いかに簡単に、分かったつもりになってしまうか痛感した瞬間でした。
分かったつもりになっているだけなのか、ちゃんと分かっているのか、なかなか
判別できるようにはなれなかったのですが、彼と同じ内容について見聞きした後、
彼が分からない、というかどうか聞くのが楽しみになりました。
自分は分かったと思っても、彼が分からない、と言った時は、慌てて自己の思考
過程を振り返り、どこに論理の飛躍があるのか一生懸命考えたものです。どう考
えても自明なことのように思われるのに、彼が「分からない」と言った時は、そ
れはそれは彼が立派に見えたものです。
そんなわけで私は、「分からない」と言える人を尊敬してしまうようになったの
で、「『分からない』と言うことが恥ずかしい」と思っている人に対して違和感
を覚えるのです。

